6
にじ
翌日。夕日が西の方に埋没してもなお、明るさを滲ませている頃、喫茶店には敦史と
聖子の二人が定番の奥のテーブルに向かい合って座っていた。香穂は他の客の接待や
準備に追われて、相変わらず忙しそう。
香穂の働きっぷりから目を外した敦史は、なんとなく気まずそうに、落ち着いた表情
で紅茶を飲んでいる聖子に目を向けた。すると、その視線に気づいたように、聖子はカ
ップから口を離し、敦史に目線を向けて、言った。
「なにジロジロ見てんのよ?」
「なっ、ナニ言ってんスかー。そんなわけないじゃないっスか」
敦史は内心「自意識過剰だよ。けっ!」とか思っていたのだが、そんな想いはおくび
にも出さず、遠慮気味に言葉を並べた。そして、これを話を切り出す絶妙のチャンスと
感じ、言葉を続けた。
「香穂さん。忙しそうですね」
「そうね。もうそんな時間だもんね。なにか用事でもあったの?」
「いっ、いや、そうじゃなくて……」
敦史はすこし焦った。そういう会話の展開になると予測していなかったからだ。しか
し、敦史は言葉を濁すと、すぐさま話題を変えた。
「今日は……、みなさん遅いですね」
「そう? 今日は私がくるのが早かったんだと思うけど?」
「ははは……。そうもいうかもしれませんね」
「あっちゃん、どうしたの?」
「どうもしませんよ」
苦笑いをしてごまかそうと敦史は思った。
そんな敦史に聖子は一瞬呆気に取られるが、すぐに落ち着いた表情に変わり、再びカ
ップに口をつけ、テーブルの上の雑誌に目を向けた。その間に一息を付いた敦史は遠慮
深げながら、いかにも、さりげなく聞いているような素振りで訊ねた。
「そういえば、お嬢さんは事故なんスっか?」
「私って、事故したように見えるぅ?」
不思議そうな口調で聖子は敦史に問い返した。
その返事と厳しい視線に敦史は苦笑いすると、いった。
「はっはっは。別にそう言う訳じゃないですけど、渡辺さんが事故って聞いてたもんで
、もしかしたらと思いまして……」
その敦史の言葉に聖子はすこし怪訝そうな顔を敦史に向けたが、すぐに平静を保って
いるような表情になり、敦史にやんわりと語った。
「渡辺さんだけじゃないかなぁ。事故は」
「そーなんスか!?」
敦史は驚いたように険しい表情を浮かべ、身を乗り出した。
そんな敦史に聖子は一瞬怪訝な顔をして、すこし怒ったように、いった。
「ちょっ、ちょっと、なによ!」
「あっ、あ、つい……。すみません」
我に返ったように敦史が気づいて、身体を元に戻すと、聖子はいつものように落ち着
いた口調で話し始めた。
「だって、アイラさんはギランバレー症候群って、前に言ってたし……」
「ちょ、ちょっと待って下さい。そのなんとかバレー症候群って、なんなんっスか?」
さえぎ
聖子の話を途中で遮るように、唇がすこし突き出すような感じで敦史は聞いた。
それに対し、聖子はあっさりと言った。
「そんなの本人に聞けばいいじゃないの」
「そっ、そんなコト言わずに、教えてくれたっていいじゃないっスか〜」
「そんなに気になるの?」
「気になるっていうか、なんていうか、いいですよ!! で、元下さんはなんなんです?」
聖子は子供でも見るような視線を敦史に向け、軽く吐息をもらすと、話を続けた。
「元下さんは……、小脳萎縮症だったかな?神経系の進行性の病気よねぇ、確か……」
「そっ、そうなんスか!? し、進行性だなんて……」
敦史は驚きを露にすると、暗い表情のまま俯いた。
そんな敦史に対して聖子は冷たく言った。
「なんで、あんたが暗くなってんのよ」
「いや、ま、そうですけど……」
俯いているままの敦史に愛想をつかしたかのように聖子はカップを手にすると、相変
わらずの落ち着いた表情で紅茶を啜った。そこに、香穂がコーヒーのポットを持って、
テーブルの横に立っていた。そして、心配げな瞳で言葉を投げかけた。
「敦史さん、どうかしたんですか?」
その香穂の言葉に聖子はカップから口を離す。と、同じぐらいに敦史もようやく顔を
上げた。そして、ハっとした表情を一瞬浮かべると、わざとらしくとぼけた。
「なっ、なんでもないっスよ。ねぇ、お嬢さん」
「なんで私に振るのよ」
「そっ、そんな冷たいコト言わないで下さいよ〜」
そんな困った様相の敦史に香穂は軽く微笑んで、きいた。
「コーヒー、おかわり要りますぅ?」
「あっ、あ、すみません」
ポットを傾けて香穂はカップにコーヒーを注いだ。カップの中にゆっくりと渦を巻く
ように黒褐色の液体の水位が上がっていき、カップの白い色がリングのように見える頃
、その水位は止まった。
「あっ、じゃあ、ごゆっくり」
香穂は優しく微笑むと、別のテーブルへと行った。その香穂を敦史はしばらく目で追
っていた。そして一息つくと、なにかを想いだしたかのように視線を変えて、聖子の方
を向くと、ふいに言葉を並べた。
「で、お嬢さんは?」
「なっ、なによ、いきなり」
「べっ、別にいきなりじゃないと思うんですけど……」
そう言うと、敦史は苦笑した。
それに対し、聖子はムっとしたように呟いた。
「香穂さんをずっと見てたくせに」
敦史は苦笑いを浮かべながらも、強い口調で言った。
「べっ、別にいいじゃないですかっ!」
「別にいいけどね」
淡々とした言葉で返す聖子に敦史はすこし苛立ちを覚えながらも、息を整え、落ち着
きを取り戻して、再度訊ねた。
「で、江川さんはどうしてそうなったんですか?」
「私ぃ? よくわからないのよね」
「わからないって……」
敦史は一瞬言葉を失った。
そしてまた、敦史は苦笑いをすると、聖子は怒ったように言った。
「そんなこと言っても仕方ないじゃない。わからないんだから。医者がそう言ってるん
だから……。ただ、いつか突然動けなくなるのよね。いつだかわからないけど……」
言葉の終わりの方は、敦史には寂しそうにも聞こえた。聖子は俯いて、スプーンで優
しく紅茶をまぜていた。そして、顔を上げると、敦史の方に強気な瞳を向け、言った。
「だから、やれる時にやりたいことはやるの!」
聖子は敦史から目線を外すと、カップを手に取り、おいしそうに紅茶を飲んだ。それ
に対し、敦史はなにも言えなかった。その聖子に気押されたわけではないが、普段は敦
史には見せない真剣な瞳に威圧されてしまったようだった。
なんとも言えない緊張感に敦史は口ごもっていた。そして、その雰囲気に居心地の悪
さを感じていた。ところが、敦史には何も策が思い浮かばなかった。その時。
対面で紅茶を飲んでいた聖子がカップを置き、入り口の方に顔を向けた。それと同時
に、入り口のドアの開く音がした。敦史がその方向に目をやると、渡辺が入ってきてい
た。
「ちは」
「こんにちはー」
「あ、ども」
車輪から手を離し、余力で近づきながら頭を下げて会釈する渡辺に、聖子はさっきま
でとは別人のように笑顔で会釈した。敦史はと言うと、相変わらずの暗さで、首を竦ま
せるように頭を下げた。
渡辺はテーブルの前まで来ると、クルっと反転して背中を向け、言った。
「あ、お嬢ちゃん、背中のもん取ってくれる?」
「これでいいの?」
聖子は渡辺の車椅子に背負わされているリュックをそう訊ねながら、取った。渡辺は
また反転して、テーブルの方を向くと、リュックを聖子から受け取って、礼を言った。
車椅子のブレーキをかけ、リュックのチャックを渡辺は開け、中から生八つ橋の箱を
取り出した。そして、それをテーブルのに載せ、言った。
「これ、みやげね」
「あー、ありがとっ!」
両手を合わせ、聖子は嬉しそうに言った。それに対して、敦史は戸惑いながら、遠慮
深げに渡辺に聞いた。
「あ、あの、僕の分は……?」
「わけてもらえばええやん。あんなにあるんやから」
あっさりと渡辺は応えて、笑った。
敦史は心配げに確認するように言った。
「ホントにいいんスっか?」
「いいもなにも、お嬢ちゃん一人で食べきれる量かいな」
「でも、元下さんやアイラさんもいるし……」
「いらんのやったら、別にええんやけど?」
すこしムっとしたような顔をした渡辺はそう言い放った。
そんな二人のやりとりはまるで耳に入っていないかのように、聖子はうれしそうに包
を開けて、箱の蓋を取った。そこに香穂が覗き見るように現れた。
その視線に聖子は気づくと、顔を上げて、いった。
「あ、香穂さんも食べます?」
「あ、私は昨日頂いたから」
「昨日?」
香穂の言葉に聖子と敦史は声を思わず上げて、とっさに渡辺の方を見た。
渡辺はその視線に不思議そうに思ってるような素振りで、その視線を流すように香穂
の方を向いて、言った。
「ん? あ、俺、ミートとコーヒーね」
「あ、はい」
渡辺の言葉に香穂は明るく応えると、カウンターの方に消えた。